憲法と私――制服を着なかった中学生のころ

はじめに

司法修習生だった2006年ころに書いた、少し懐かしい文章が見つかりました。

読み返してみると、文章には若さを感じるところもありますが、書かれていることは、今の自分にもつながっているように思います。

私が「人権」や「憲法」というものを、教科書の中の言葉ではなく、自分自身の問題として初めて意識したのは、中学生のころの「制服」をめぐる経験でした。

約20年前の文章ですが、あえて大きく手を入れず、当時の文章のまま掲載します。


憲法と私

20組 京都修習 戸舘圭之

中学生のころの私は,制服を着ない中学生でした。

正確に言えば,学生服のズボンははくけど,上着は着ませんでした。

もちろん,私の通ってた公立中学校では,「標準服」という名の制服が校則で定められていましたので(もっとも,学校としては,あくまで「標準服」であって強制はしていないので制服ではないと主張していましたが),私以外のほとんどの人は,女子は紺色のブレザー,男子は詰め襟の学ランを着て通学していました。

なぜこのようなことをしていたのか,今となっては定かではないところもあるのですが,単純化していえば「学校が子どもの着る服を強制するのはおかしい。自分で着る服は自分で決めさせるべきだ。」という考えが中学生の私にあったからだと思います。もちろん,両親がそのような私の考えに理解を示していたこと(というより,そもそも両親がそういう考えの持ち主だったこと),隣の学区の中学校では私服通学が認められていたこと(正確には,通学時に着る服が基本的に子どもの自由に任せられていた)などの事情があったことも,このような私の行動を容易にさせていたと思います。

制服を着ないのであれば,完全に普段着で通学すればいいのですが,頑固者でありながら小心者の私は,さすがにそこまでの勇気はなく,ズボンはみんなと同じ黒色のものをはき上着だけは,トレーナーやセーターなどを着て一応「制服を着ない中学生」をしていたわけです。

学校の先生としても,一応タテマエとしては制服ではなく「標準服」であって強制ではないということから,私の行動に対して,特に何も言ってきませんでした。

ただ,一応確固たる信念をもっていたはずの私でも,他の人たちと違う行動をすることにはそれなりの葛藤のようなものもありました。単に「制服を着ない(それも上着だけ)」ということでも,中学生の子どもにとっては,精神的には負担になっていたと思います。

制服はおかしいという私の意見に対しては,「でも,制服だと毎日着る服考えなくていいから楽じゃん。私服だとたいへん。」などと否定的な友人も周りにはけっこういました。

ただ,私としては,何も学生服を着るのがおかしいといっているのではなくて,あくまで生徒全員が同じ服を着なければいけないと決めることがおかしいのであって,制服を廃止したとしても,制服(学生服とかブレザーとか)を着たい人は着ればいいと考えていました。

また,制服を学校の先生が正当化する論拠としては,「服装を自由にすると,華美な服装になってしまい教育上よろしくない。(いわゆる「服装の乱れは,心の乱れ」論)」といったことがよく挙げられます。しかし,仮に華美な服装になることが教育上よろしくないとしても,それは服装を自由にしたうえで,教育的観点から指導すればよいのであって,生徒全員を同じ服装にする必要はないはずです(服装の乱れを見つけたいなら制服よりも,服装を自由にしたほうが見つけやすいともいえます)。

ちなみに,中学校における制服はおかしいと考えた私は,生徒会に立候補して制服廃止を公約に掲げましたが,残念ながら2年連続で落選しました。

中学校を卒業して修習生となった今振り返ってみても,あの時の私の考えは正しかったと思っています。

今思えば,私が,「人権」=ヒューマンライツというものを意識したきっかけが,この制服問題だったと思います。「通学時に着る服を自分で決める自由」というものが憲法上保障された人権であるかは異論があるかもしれませんが,少なくとも当時中学生だった私にとっては,憲法が一つのよりどころ,心の支えになっていました(当時の私は,憲法21条の表現の自由の一つとして服装の自由を考えていました)。

ある人からみれば私のような人間は,全体の和を乱す「わがまま」な人に見えたかもしれません。しかし,その「わがまま」を可能な限り認めることが,他ならぬ「人権」というものを保障することなんだと思っています。

私にとって,人権とは何か,権利とは何か,憲法とは何かについて,他人事ではなく,じぶんの事として感じられたきっかけが,中学生時代の制服を着ない体験だったのです。


いま読み返して

あれから約20年が経ちました。

弁護士としてさまざまな事件にかかわってきた今でも、「人権」というものについて考えるとき、このころに感じていたことは、それほど変わっていないように思います。

多数の人にとっては何でもないルールでも、ある一人にとっては切実な問題かもしれない。

そして、「みんなと同じにしなければならない」ということと、「みんなが一緒に生きていく」ということは、同じではありません。

憲法や人権は、難しい法律の世界だけにあるものではなく、学校や職場、家庭など、私たちの日常の中にあるものです。

この文章を読み返して、そんなことを改めて思いました。

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